哲学する格差

運の平等主義と格差:個人の責任と社会の役割に関する哲学的考察

Tags: 運の平等主義, 正義論, 格差社会, 社会哲学, 倫理学

はじめに:格差と「運」の問い

現代社会において、経済的格差、教育格差、機会の不平等といった多岐にわたる格差問題は、社会正義を巡る喫緊の課題として認識されています。これらの格差をいかに正当化し、あるいは是正すべきかという問いは、古くから哲学の主要なテーマであり続けています。特に20世紀後半以降、正義論における議論は、単なる所得や富の再分配に留まらず、「運」が個人の生に与える影響、そしてそれに対する個人の責任や社会の役割という、より深遠な問題へと焦点を移しています。

本稿では、この現代的な正義論の潮流において重要な位置を占める「運の平等主義(luck egalitarianism)」に焦点を当て、その基本的な考え方と、それが格差社会における個人の責任と社会の役割をどのように捉え直すのかについて考察します。運の平等主義は、私たちの生における「運」の要素と、それに対する個人の「選択」との区別を通じて、正義の分配原則を構築しようとする試みです。

運の平等主義の基礎概念:選択と不運の区別

運の平等主義は、個人の選択や努力の結果として生じた格差と、個人のコントロールが及ばない「運」によって生じた格差とを区別し、後者の是正を正義の要請と見なす考え方です。この立場は、ロナルド・ドゥウォーキン、ジェリー・コーエン、リチャード・アラズカといった哲学者たちによって異なる形で展開されてきました。

彼らが共通して強調するのは、人々が自らの選択や責任によって生じた不利益については責任を負うべきである一方、彼らの責任ではない、いわば「不運」によって生じた不利益については社会が補償すべきであるという点です。ここで言う「運」は、大きく分けて二つの種類があります。

  1. 素朴な不運(brute luck): 個人の選択や行動とは無関係に生じる運を指します。例えば、生まれつきの才能や身体的特徴、家庭環境、不慮の事故や病気などがこれに該当します。運の平等主義は、この素朴な不運によって生じる格差を不公正と見なし、社会がこれを是正するためのメカニズムを持つべきだと主張します。
  2. 選択による不運(option luck): 個人の自発的な選択やリスクテイクの結果として生じる運を指します。例えば、ギャンブルで負けることや、特定の職業選択に伴う経済的リスクなどがこれに該当します。運の平等主義の多くの提唱者は、この選択による不運の結果としての格差については、原則として個人が責任を負うべきだと考えます。

この区分は、正義の分配において、個人の「責任」の範囲を明確にしようとする試みであり、どこまでが個人の責任で、どこからが社会の責任であるのかという問いに解答を与えようとします。

格差の道徳的責任と社会の役割

運の平等主義が提起する重要な論点の一つは、格差に対する「道徳的責任」の所在です。この理論は、人々が異なる状況にあるのは、部分的には彼らの自発的な選択によるものであり、部分的には彼らの責任ではない「運」によるものであるという直観に基づいています。

もし格差が個人の選択や努力の結果であるならば、それは「正当な格差」として許容され得ると考えられます。例えば、勤勉に働き、リスクを冒して事業を成功させた者が高い所得を得ることは、その個人の努力と選択の結果であり、正当な報酬と見なされます。しかし、生まれつきの能力の欠如、恵まれない家庭環境、あるいは予期せぬ事故や病気といった、個人が選択しなかった「不運」によって生じる格差は、道徳的に正当化されず、社会全体で是正されるべきであると主張されます。

この考え方は、福祉政策や再分配政策の根拠に深い示唆を与えます。社会保障制度や教育機会の均等化は、まさにこの「素朴な不運」による格差を緩和するための取り組みとして理解できます。例えば、障害を持つ人々への支援や、貧困家庭の子供たちへの教育支援は、彼らが自らの選択によらずして直面するハンディキャップを補償し、機会の平等を確保しようとするものです。

しかしながら、この「選択」と「不運」の区別は、実践的には非常に困難な問題を孕んでいます。ある行動が本当に「自発的な選択」であったのか、それとも社会環境や育成環境といった「運」によって形成された性格や嗜好の結果であったのかを厳密に区別することは容易ではありません。例えば、教育機会の不足が結果的に不健康なライフスタイルにつながる場合、それは個人の「選択」によるものなのか、それとも「運」によって形作られた状況の結果なのか、判断は複雑です。

批判と課題:実践的適用とスティグマの問題

運の平等主義は、その明快な概念区分にもかかわらず、多くの批判に直面しています。主な批判点としては、以下のようなものが挙げられます。

  1. 「見捨てられた人々」の問題: 運の平等主義は、不運によって生じる格差を補償すべきだと主張しますが、その際に「不運」と認定されること自体が、当事者に対するスティグマや尊厳の侵害につながる可能性があります。例えば、病気や障害が「不運」として補償の対象となる一方で、その人が「自らの選択」によって職を失ったと判断された場合、社会からの支援が得られないだけでなく、自己責任を問われる形となり、尊厳が損なわれる可能性が指摘されます。エリザベス・アンダーソンはこの点を強く批判し、市民が社会にアクセスし、自律的に活動できる能力を保証する「民主的平等」を提唱しています。
  2. 「選択」と「不運」の厳密な区別の困難さ: 前述の通り、人間の行動の背景には、個人の意思だけでなく、遺伝的要因、生育環境、社会経済的状況など、多様な要素が複雑に絡み合っています。どこまでが個人の選択の範疇であり、どこからが「運」の領域であるかを明確に線引きすることは、哲学的に、また実践的に極めて困難です。
  3. 過度な情報収集の必要性: 個人の「選択」と「運」を区別し、それに従って分配を行うためには、個人の詳細な情報(人生の選択、健康状態、能力など)を政府や社会が把握する必要が生じ、プライバシーの侵害や管理社会化のリスクが懸念されます。

これらの批判は、運の平等主義が提示する責任概念の限界と、その実践的適用における困難を浮き彫りにしています。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチなど、他の正義論は、個人の能力(ケイパビリティ)の向上と実質的な自由の拡大に焦点を当てることで、運の平等主義の抱えるこれらの課題に対する異なる視点を提供しています。

結論:運の平等主義が格差社会に問いかけるもの

運の平等主義は、現代の格差社会において、個人の「責任」と社会の「役割」という核心的な問いを再定義する上で、極めて重要な視点を提供します。私たちの生における「運」の要素を深く洞察し、それがいかに格差を生み出すか、そして社会がそれにどう向き合うべきかを考察することは、より公正な社会を構築するための出発点となります。

確かに、この理論には実践的な適用における困難や道徳的な問題点が指摘されています。しかし、個人の選択を超えた不運によって生じる格差を是正することの道徳的緊急性を強調するそのメッセージは、現代の福祉国家や再分配政策の根幹に影響を与え続けています。

運の平等主義を巡る議論は、私たちが格差問題を単なる経済的指標としてだけでなく、個人の尊厳、自由、そして責任といった、より根源的な哲学的な問いと結びつけて考察することの重要性を示唆しています。この議論を深めることは、単に所得の再分配のあり方について考えるだけでなく、私たち一人ひとりが社会の中でいかに責任を負い、いかに他者と共生していくかという、より包括的な社会正義の探求へと繋がっていくものと考えられます。